『アボリジナル オーストラリアに生きた先住民族の知恵』より
アボリジナル・グループのほとんどが、介助を必要とする仲間を看護できなかったことは、彼らの豊かな暮らしの欠陥のひとつといってよかろう。だがその比較的高い死亡率は、おそらく彼らの豊かな暮らしを守るために不可欠だったのだ。
アボリジナルの暮らしは、豊かであるだけでなく、子どもに対する愛情も深い。
しかし、育てられないとみなされた新生児(双子の一方など)は命を奪われてしまう。
同じことは動物界では当たり前のように行われている。
これを回避しようとすれば、何が起きてくるのか。
食糧不足、耕地拡大、住環境の悪化、介護の押しつけ、金銭的負担の押しつけと
金銭管理部門の腐敗、不満を貯める養育者、子どもの虐待、
虐待されて育った親が子を虐待する連鎖・・・
こうして健康に生まれてきた個体までもが、ストレスと不満に満ちた暮らしを
送らされることになり、豊かな老後の夢だけを見させられて裏切られることに
なる。文明社会では人は文明のいいなりとなるしかなく、自主独立は失われる。
こうしてみてくると、私たちは大きな思い違いをしているのではないかという
考えが浮かんでくる。捨て猫を拾い続けることができないように、
人も自然の掟に従って生きるしかない存在なのだはないか。
だとすれば、介助のできない状態こそが本来なのだ。
陰謀論を中心に文明の正体を知る活動を続けていけば、
甘い言葉の裏には人類家畜化の罠が待っていることが
はっきりと見えてくるのである。
動物たちは限られた資源の中で種を維持するための習性を身に着けている。
食べ物や異性という資源を得るために縄張りを持って、
個体数を制限し、資源の枯渇を防いでいる。
冷酷なように見えても、
子どもを追いだし、
侵入者と戦うのは、
そうしなれけば種を維持できないからである。
「仲良くしようよ」といってはおられない。
(食べ物を見付けたり、
共同で獲物をとったり、
敵を警戒したりするために
協力し合うことは
また別の側面として存在はしている)。
ヒトも同じだった。
『アボリジナル』には次のように記されている。
アボリジナルはいつも食糧不足を心配していたわけではあるまい。飢饉の恐ろしさを知らずに一生を終える世代が何代も続くことだったあったにちがいない。それでもアボリジナルの歴史の背後には飢餓への恐れがずっと存在していたのだろう。というのは人口の急増を食い止めるしきたりが彼らのなかに現にあったからだ。そしてたいていのアボリジナルの集団にとってこのしきたりをきちんと守るかどうかが、食糧が豊富に手に入るかどうかの分かれ目となったのだ。(109ページ)
これに続けて、人工流産を起こす方法をアボリジナルたちが知っていたと言う記述がある。
ヒトも本来は、縄張りを持ち、個体数の増加を抑えながら暮らしてきた。個体数を抑えることは、共同体にとって常に重要な関心事であり、ヤノマミが行っている新生児をヒトとして抱き上げることなくあの世に返してしまうような行為は世界中で行われていたし、それは平等なものでもあった。
私たちは、農業革命によって飢えのない世界を作ることができると考えがちであるが、これは完全に嘘である。
・食糧が増えれば個体数が増える。
・タンパク質と野菜中心の食事から炭水化物と油中心の食事へと質が低下する。
・増産型の作物は土地を荒廃させる。
・耕地が増えることは資源の枯渇を意味してもいる。
このため、人は個体数を調整する以外にないのだが、ここで問題となるのは平等性である。
現代社会では、格差を拡大することによって暗黙的に個体数削減が実施されようとしているようである。子宮けいがんワクチンの接種や、原発事故も個体数削減を意図した行為であるかもしれない。
人の本来の暮らし方であれば、誰もが平等に負担していたはずの
個体数の抑制という課題が、文明社会では、
特定の人々にだけ押しつけられている。
また、ときには冷酷さが必要なのだ
(冷酷さを失えば資源の枯渇と飢餓が待っている)
という事実も、現代社会では隠されてしまっている。
この点をとことんまで追求していくならば、
私たちには、やはり、脱農耕、脱文明しか
選択肢はないのだと、私には思えるのである。