るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

言葉はいらない

親と子であることも
オスとメスであることも
猫と人であることも
知らないままで
猫たちは秩序を作る。


オス猫同士は兄弟なのだが
いまはライバルとして時にケンカをする。


しかし、四六時中いがみ合うのではなく、
ほとんどの時間は平安である。


兄弟猫の一匹と、押しかけ飼い猫の雌猫は、
教えたわけでもないのにツガイを作る。
メスはときに乱暴に扱われながらも
二匹でくっついて寝ている。


私たちと猫たちの間柄も
ご都合主義のようにしてできあがっており、
猫たちは猫たちの都合で甘えてきたり、無視したりする。


こうした言葉のない世界を一方の端に置き、
言葉によってがんじがらめになった文明社会をもう一方に置く、


その間にあるのが、ピダハンやブッシュマンの生きる社会である。


ピダハンやブッシュマンには文字はなく、
裁判所もない。


言葉によって決められていくことよりも、
事実関係によって決まっていくことのほうが多い。


理念や理想ではなく、
現実に即して対処していく。


大きな数字を必要とせず、
複雑な抽象概念も少ない。


言葉による情報量が少ないほど
本来の命の世界があり、
逆に行くほどに、
言葉が作りだしたウソの世界がある、


言葉が作り出す世界は、
あいまいで流動的な現実を枠組みにはめ込んでいく世界である。
その結果、あいまいで流動的な存在である私たちは
言葉に依存すればするほど命から離れていく。


権利や義務、倫理、経済、進歩などという言葉を生むにつれ、
不自由になっていく。



言葉を優先してはいけない。 


廃材天国/徒歩でしか行けない集落

お勧めのYoutube動画を2本紹介します。
廃材天国
 
五右衛門風呂
ロープ遊び
一輪車の車
子どもが手作りするおもちゃ
私が子どもだった頃の暮らしを思い出します。


徒歩でしか行けない集落 小谷村真木

 
30年前に一度は廃村になった後、共働学舎の人たちが半自給自足で暮らすようになった集落です。


こうした暮らしは私が子どもだったころの田舎の暮らしを思い出させます。先日法要で帰ったとき、義理の叔父が「昔は貧しかったけれど皆が貧しくて幸せだった。今の子はかわいそうだ」と言っていました。私もつくづくそう思います。


富を求めるエゴイストたちは、人を経済活動へと駆り立てる仕組みを作りました。
税金を納めさせ、医療や教育に金をかけさせ、格差を作り、「お金持ちになりたい」と思わせる情報を流しました。


工場排水や、合成洗剤で濁った川や、大規模な工場を作るためにコンクリートで固められて死んだ大地や、資源を採掘するために掘られた巨大な穴については、意識を向けさせないで、経済活動の恩恵にばかり目を向けさせることで、人々は、今の暮らしが何を犠牲にして成りなっているのを考えなくなりました。


ドライブ、旅行、ファッション、映画、ショッピング、パチンコといった娯楽を楽しみながら、この暮らしは、私たち自身が求めた暮らしなのだとほとんどの人は考えていることでしょう。


でも、少し考えてみてください。日本という国の進路について、私たちが私たち自身で選んだものなんて本当にあるのでしょうか。なぜかしらないけれど新聞テレビが騒ぎ始め、うやむやのうちに決まっていくことばかりではないでしょうか。


実際にそうなのです。私たちは、私たちがどんな存在であるのかをじっくり考える閑もないままに、学校で価値観を植え付けられ、新聞テレビによってふりまかれる話題にのせられて経済活動を続け、「社会の変化」に取り残されないように安心できる場所を求めて生きるばかりで、社会の方向性を決めることなどまるでできないのです。


なぜ、そうなるのか。それは、人類の歴史が、学校で教えるような国民主権とも、奴隷解放とも無縁の歴史であるからです。


生物であるかぎりエゴイストであることは避けられません。そんなエゴイストが肉体の限界を超えて移動したり、他の個体を制御したりできる力を手に入れたなら、どうなるでしょうか。ほんの少数のエゴイストたちが自分たちの都合のよいように他の個体を動かすこ
とになるでしょう。


それこそが、文明社会なのです。


人々のあらゆる活動が一握りのエゴイストの富へと転化するように文明社会はでき上がっています。資源を独占し、技術を独占し、情報を独占し、制度を作り上げています。文明社会で支配される者として生き残るために人は学歴を求め、地位を求め、富を求めます。そうしないことを選べば、格差社会の底辺に追いやられていき、活路が失われます。


私と妻が今の場所に越してきたとき、大きな庭に古い木々の茂る感じのよい家や、たくさんの果樹の植えられた素敵な空き地がありました。今そこには、ファミマができ、マクドナルドができ、賃貸アパートができました。


おそらく、固定資産税や相続税のために決断したのでしょう。足るを知る生活を続けたくても制度がそうさせてくれないのです。そして、留意しなくてはいけないのは、そうした制度を作りあげたのが、一握りのエゴイストたちだという事実です。


文明社会は私たちのものではなく、一握りのエゴイストたちのものです。現代社会の仕組みを分析していけばそれがわかります。彼らに力を与えたのは、大規模化した社会ででした。ならば、社会の規模を小さくすることで、私たちは支配を脱することができるのです。

生命の姿を知って(欲望の水準を下げる)

『葉っぱのフレディー』という有名な本がある。


  春に生まれた葉っぱのフレディが、自分という存在に気づき、成長し、「葉っぱに生まれてよかったな」と思い、「葉っぱの仕事」を終えて冬に土へとかえっていくまでの物語。

   死を怖がるフレディに親友のダニエルが答える。「変化するって自然な事なんだ…死ぬというのも 変わることの1つなのだよ」。フレディの番が来て、地面に降りたとき、初めて自分の命を作った木の全体の姿を見て、そこに永遠の命を感じる。そして、フレディ自身は知らなくても、やがて土にかえり木を育てる力になる――。

 「生まれること」「変化すること」が「永遠の命」へとつながる意味を、フレディとダニエルの会話を通してわかりやすく語りかけている。写真だけでは硬くなりがちのところを、ページをめくるごとにフレディの変化していく様子が、にじみのあるやわらかさで描かれ、バランスをとっている。著者はアメリカの著名な哲学者。子どもから大人まで、すべての年齢層向けの絵本。(加久田秀子)

私はまだ読んでいない。


葉っぱは、仕事を終えて冬になって土へと帰っていくことになっている。でも、私たちの生命の世界はもっとずっと厳しい。


たくさん卵を産む魚などは、一回の産卵で何千何万という卵を産んでも親になるのは、ほんの一握りでしかない。


魚だけでなく、私たちも同様だ。


200年も遡れば、生まれた子どもの半分が成人前に死んでいく世界が存在していた。だから、子どもには本来の名前を付けず、天からの預かり物として、いつ返すよう言われてもよいように覚悟しながら育てていた。


今人類は、こういう命の世界を抜けて、大部分の命が成人を迎え、大半はそのまま80歳までも生きるような世界を作ろうとしている。そんな状況が実現しかけて見えてきたのは、命の法則に従うしかないという事実だ。


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分譲マンションの自治会で、1階の住民がエレベーターの管理費を平等に分担することに不満を持ち、利用率に応じた負担に変えようとしたことがあったという。自治会にかけたところ、上層階の住民の団結によって、かえって1階の住民の負担を増やす案が通ってしまったという。


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文明の進歩によって、たくさんの高齢者が生まれ、たくさんの障害者が生き残るようになったとき、そうした人々の発言を尊重していけば、結局、元気で健康な人たちが一番割を食う。誰も生きることの意味を見いだせなくなり、精神を病んでいく。リベラルであることなどできないのだ。


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現代のヨーロッパ人の歯は5万年前のネアンデルタール人に比べて50%も小さく、2万年前のクロマニヨン人と比べて20%小さいという(『食の考古学』19ページ)。食べやすく加工する技術が顎を弱くするのであろう。これに限らず、肉体の外に解決策を見つけだす人類の能力は肉体の劣化を加速していく。


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穀物支配という言葉がある。穀物を作るようになって支配者が誕生したのである。支配者の誕生は数字を生み文字を生み法を生んだ。私たちの文明社会を見れば、こうして生まれた法によってがんじがらめにされてかつては可能だった山や辺境へ逃げることさえできなくなったという現実がある。


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サバンナの動物親子に学ぶ』には、次のように記されている。

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。


本来は、まだ幼いうちに、大部分が失われるはずの命。そうすることで、強い者だけが生き残り、何とか続いてきた命。この世はただ偶然生まれてきた命が、受け継いだ体質や、周囲の状況に応じて、命の絶えるまでのほんの短い間だけ、いられる場所。しかも、ほとんどの命はまだ途上で失われるべきもの。


そういった命を受け入れることでしか命が続かないとすれば、私たちはお金持ちになる必要も、経済発展や研究開発に力をいれる必要もない。ただ「生」を精いっぱい楽しむだけでいい。そんな動物的なあり方をしたときに限って、生を楽しむことのできる世界が蘇る。