るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

熱田神宮と白鳥庭園

熱田神宮と白鳥庭園に行ってきました。



大台ケ原に行ったときに感じたようなすがすがしさを味わうことができる場所が熱田神宮です。熱田神宮を象徴する大きな楠があり、他にも多くの常緑広葉樹の大木があって、街の中にありながら、森の冷気を感じることができます。東山動植物園と熱田神宮とで迷いましたが、より自然な森を楽しみたくて熱田神宮にしました。



ちょうど七五三にあたっていたので、たくさんの参拝者たちで溢れていました。屋台も並んでにぎやかでしたが、やはり落ち着いた雰囲気があるのは、森のおかげでしょう。森の落ち葉は、人の通る場所こそ掃き清めてありますが、森の中ではできるだけそのままにしてあるようで、湿気を保ってくれているようでした。



境内にある宮きしめんも熱田神宮を訪れる楽しみの一つです。行列はできていましたが順調に進んでいくので、長く待たされることもなく順番が来ます。きしめんの提供速度と食事を終える速度のつり合いもちょうどよく、いつも少しは空席がある状況が続いていました。




熱田神宮に参拝した後は、白鳥庭園に行きました。熱田神宮から徒歩5分ほどです。平成元年に作られた新しい庭園ですが、草や木が適度に雑然としており、また美しい景色を生み出すように巧みに設計されているため、逝きし世の面影に描かれた古い日本の町や郊外を思わせるものがありました。



古い本を読むと昭和になっても皇居のお堀の水は澄んでいたといいます。名古屋の堀川でも80歳くらいの人たちが子どもの頃は泳げたといいます。



経済発展の背後に、世界システムや国際金融家たちがいて、教育やマスコミも牛耳ながら人々を経済活動に追いやっていたと知ると、失ったものと得たものとでは、失ったものが圧倒的に大きかったことがわかります。



今日も熱田神宮では、参道の脇の溝を流れる水をみつけて七五三に参拝に連れてこられた男の子がさっそく遊ぼうとしていました。そんな水の流れる場所ももうめったに見なくなりました。



私は、森が蘇ることを熱田の神にお願いしてきました。










自然に帰れではなく、正常に戻れ

言葉によって作り上げられた私たちの社会。



言葉によって作り上げられた私たちの社会は、あらゆる生物にとって不都合であることで、あらゆる生物の存在を許される生命の世界を破壊するものである。



言葉を得た人類(20万年ほど前に登場したホモサピエンス)が行ってきたことは、人類にとって不都合な世界を、人類にとって都合のよい世界へと変えようとする営みだった。



植物を育て、動物を飼い、耕作地を増やし、森を切り開き、道を作った。



その動きは加速して、ワクチン接種、遺伝子操作、さまざまな手術、電力の利用、自動車の利用、コンピュータの発達など、ますます多くの不都合を解消できるようになっている。




そうして不都合を解消することで、見えてきたのは、不都合を不都合として受け入れることでしか、生物は存続できないのではないかという事実であった。




たとえば、多く生まれて幼くして多く死ぬ状況は確かに不都合である。しかし、そうした社会は活力があり、子育てを学ぶ機会を生み、子どもたちが遊ぶ時間を作っていた。また、日々を大切にすること、命を大切にすることを自然に学ぶことができた。そのうえ、そうして生き残った人たちは肉体的にも精神的にも強く、厳しい生活が生きる喜びをもたらしてくれていた。



乳幼児死亡率が低下することで、社会は子どもの数を減らして活力を失い、人々は子育ての場面を体験できないまま大人を迎えることになり、子どもたちは過保護過干渉を受け、人生は長いと思い込み、肉体的にも精神的にも弱いままの大人になり、文明の利器に支えられて生きながら生きる喜びを感じることができなくなっている。




人が殺し合うことは不都合であるだろう。しかし、殺し合うことが可能であった社会は、救いのある社会でもあった。一方、殺し合うことができなくなった社会は、なすすべを奪われた救いのない社会でもある。





人は文明と野生、自然と人工を対立させて、どちらか一方を理想世界であると考えようとする。



事実は上で見たとおりである。



つまり、文明・人工は、言葉を持った人類が人類にとって都合のよい世界を作り上げようとする過程であり、それは、不都合があるおかげで成り立っている世界を破壊しようとする異常な状態である。



一方、不都合を不都合として受け入れるしかない人類のあり方も存在している。それが遊動する狩猟採集生活だ。遊動の必要性が社会や制度の発達を阻害し、科学技術の発展を制限してくれる。そのおかげで、遊動する狩猟採集者たちは、自然に近い生活を続けてくることができていた。



生物にとって正常な状態とは、都合の良い世界を作り上げたいという生物が本来持つ欲求が、多くの制限によって抑制されている状態である。それが自然であり、野生である。



自然に帰れとは、なすすべのない状況を甘んじて受け入れよ、そして正常な状態に戻れということだ。決して、文明の支配者たちから逃れて、快適で楽しい自然界へ戻れということではない。



どんなに不都合でも、電気も自動車も使わず、身近で得られるものだけに頼って生きていくときに、人は正常な状態を取り戻すことができ、そこから逃れようとすればするほど異常性を増していくのだ(甘んじることが可能かどうかはわからない)。



ともかく、私たちは自然/人工や野生/文明ではなく、正常/異常という視点から人類史を見る必要があると私は思う。







逆が正解→大切なことは、規模を拡大しないこと【衆院選挙によせて】

スモールイズビューティフル

まだ読めていない本だが、石油危機の到来前に書かれ、原子力を扱うことの恐ろしさをすでに指摘した本として、再読を促されている本でもある。


老子の小国寡民にも通じている。


さて、私がつくづく思うのは、規模の小ささこそが大切だということである。


私たちが、自動車を利用したり、電気を利用したりしようとすれば、私たちの住む場所では得られない資源に依存することになる。


私たちが、高度な医療を欲したり、珍しい食べ物を欲すれば、やはり他の地域に依存することになる。


こうして依存することで作られる世界では、経済こそが力となり、政治は見せかけだけのものとなる。だから選挙など無駄なのだ。


皆が、よりよい明日を目指した結果は、経済によって縛りつけられた人々が「主権者」として丸めこまれ、経済ではなく政治を語って、まだ夢を追いかけている世界であった。


電気や自動車、医療という「恩恵」を受けるためには大きな経済を必要とし、その結果として、私たちは経済のいいなりにならざるを得なくになった。


ならば、どうすればよいのか、答えは簡単だ。


恩恵を捨てて、他の地域への依存をできるだけ低下させた、ちいさな社会を第一の目標とすることだ。


経済を拡大しなくては得られないものをすべて諦めて、小さな社会でも実現できる暮しを受け入れる。


そうしてやっと、私たちは経済の呪縛から解放される。