るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

雨が降ると

都会にも、山奥の谷川を流れる水のような
清い流れが短期間ながらも生まれる。


この一時的な流れの立てる水音は
確かに、
清水の立てる音と同じだ。


雨の日は
体もだるく
休息を促す。


そんなだるい体に
水の流れる音が届く。



都会に暮らしていても、
雨の日は、
自然に囲まれて暮していた頃の
動物に少しだけ
戻してくれる。

手で絞った洗濯物が乾いていく時間

私たちは、
騙されている。


エンジン音
街路灯
家電のモーター音
電気代
水道代
電話代



豊かさと見えるものは、
私たちの暮らしから
「なんともならないことを
なんとかしようとしない」
ことによる
安心感を奪った。


代わりに、
時間と金に追われ、
競争を強いられ、
不安をあおる情報をあびせられ、
多忙と偽の満足の裏で
生物として生きる時間を
一方的に奪われている。



物を運ぶトラックが走り、
情報を運ぶ電気が走る現代社会の
薄い皮をはいでみれば、


大量の廃棄物と
意味のない労働と
意味のない消費。


それによって生み出される富を
吸い上げる仕組みに気づかないように
仕立て上げられた教育やメディア。
(会社は独占され、国家は意味を持たない)。


それでも、
反抗できないように作られたシステムを
教育やメディアは、民主主義と呼ぶ。


手で絞った洗濯物から水が垂れ、
次第に水分が失われて
やがて、
パリパリに乾いたとき、
私は、こうして
おだやかにながれる時間を
随分長い間忘れていた自分に気づいた。


私たちにとって必要なのは、
このおだやかな時間を失わせたものを
私たちは文明と呼び、
進歩と思い込むように
しつけられていると
自覚することなのだ。



難病を治療することや
飢えをなくすことや
権利を守らせることとを目指した私たちは
おだやかに流れる時間を失った。


それが事実である。

「文明社会こそが人の本来のあり方である」と信じることはトンデモである

私たちの今の価値観は、文明社会を前提として作られている。




多くの物を持ち、多くの人が集まり、食糧を生産し、定住して、体の機能がある程度衰えても生き続けることのできる状態を前提として作られている。




でも、これは、ヒトの本来のあり方とはほど遠いあり方である。




ホモサピエンスが生まれたのが20万年前としても、定住生活が始まった1万5千年前からの年月は、ホモサピエンス史の10分の1にも満たない期間しか持たない。まずは、期間的に見て、文明社会は正常ではありえない。




定住生活と農耕が人類に及ぼした影響は、人口が増え、集団の規模が拡大して、争いが激化したことであったり、貯蔵や蓄積が可能になったことで、格差が生まれ、高度な技術の開発が可能なったことであったり、農耕を基盤とすることで地球環境への影響が拡大したことであったり、炭水化物を主体とする食や、加工方法の変化を受けた肉体の退化であったりする。




私たちが本来の状態であると考えている文明社会は、それこそが、環境破壊の元凶であり、戦争の元凶であり、格差の元凶であり、遺伝子組み換え食品、巨大資本、巨大金融、AI、監視社会など、次々と新しい問題を生み出す元凶になっている。文明社会が生んだ問題を、文明の進歩によって解決しようとすればするほど、問題は深刻化していくというわけである。




私が、多くのトンデモ本を読んで学んだことは、トンデモ本の著者たちは、それなりに根拠となる情報を集めて、自分なりに筋道の通っていると考える主張を繰り広げているということであった。




同じことは、文明社会を「正常なあり方」であると勝手に仮定して、福祉や、民主主義や、技術の進歩を語る、現在のほとんどの主張にも言える。このあり方が正常であると仮定することは、トンデモないことなのだ。




文明社会が生んだ、民主主義、福祉の充実、国家主権、男女同権などという概念は、ヒトの本来のあり方を一切問い直していないトンデモな説の上に打ち立てられた概念でしかない。