るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

生命の姿を知って(欲望の水準を下げる)

『葉っぱのフレディー』という有名な本がある。


  春に生まれた葉っぱのフレディが、自分という存在に気づき、成長し、「葉っぱに生まれてよかったな」と思い、「葉っぱの仕事」を終えて冬に土へとかえっていくまでの物語。

   死を怖がるフレディに親友のダニエルが答える。「変化するって自然な事なんだ…死ぬというのも 変わることの1つなのだよ」。フレディの番が来て、地面に降りたとき、初めて自分の命を作った木の全体の姿を見て、そこに永遠の命を感じる。そして、フレディ自身は知らなくても、やがて土にかえり木を育てる力になる――。

 「生まれること」「変化すること」が「永遠の命」へとつながる意味を、フレディとダニエルの会話を通してわかりやすく語りかけている。写真だけでは硬くなりがちのところを、ページをめくるごとにフレディの変化していく様子が、にじみのあるやわらかさで描かれ、バランスをとっている。著者はアメリカの著名な哲学者。子どもから大人まで、すべての年齢層向けの絵本。(加久田秀子)

私はまだ読んでいない。


葉っぱは、仕事を終えて冬になって土へと帰っていくことになっている。でも、私たちの生命の世界はもっとずっと厳しい。


たくさん卵を産む魚などは、一回の産卵で何千何万という卵を産んでも親になるのは、ほんの一握りでしかない。


魚だけでなく、私たちも同様だ。


200年も遡れば、生まれた子どもの半分が成人前に死んでいく世界が存在していた。だから、子どもには本来の名前を付けず、天からの預かり物として、いつ返すよう言われてもよいように覚悟しながら育てていた。


今人類は、こういう命の世界を抜けて、大部分の命が成人を迎え、大半はそのまま80歳までも生きるような世界を作ろうとしている。そんな状況が実現しかけて見えてきたのは、命の法則に従うしかないという事実だ。


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分譲マンションの自治会で、1階の住民がエレベーターの管理費を平等に分担することに不満を持ち、利用率に応じた負担に変えようとしたことがあったという。自治会にかけたところ、上層階の住民の団結によって、かえって1階の住民の負担を増やす案が通ってしまったという。


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文明の進歩によって、たくさんの高齢者が生まれ、たくさんの障害者が生き残るようになったとき、そうした人々の発言を尊重していけば、結局、元気で健康な人たちが一番割を食う。誰も生きることの意味を見いだせなくなり、精神を病んでいく。リベラルであることなどできないのだ。


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現代のヨーロッパ人の歯は5万年前のネアンデルタール人に比べて50%も小さく、2万年前のクロマニヨン人と比べて20%小さいという(『食の考古学』19ページ)。食べやすく加工する技術が顎を弱くするのであろう。これに限らず、肉体の外に解決策を見つけだす人類の能力は肉体の劣化を加速していく。


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穀物支配という言葉がある。穀物を作るようになって支配者が誕生したのである。支配者の誕生は数字を生み文字を生み法を生んだ。私たちの文明社会を見れば、こうして生まれた法によってがんじがらめにされてかつては可能だった山や辺境へ逃げることさえできなくなったという現実がある。


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サバンナの動物親子に学ぶ』には、次のように記されている。

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。


本来は、まだ幼いうちに、大部分が失われるはずの命。そうすることで、強い者だけが生き残り、何とか続いてきた命。この世はただ偶然生まれてきた命が、受け継いだ体質や、周囲の状況に応じて、命の絶えるまでのほんの短い間だけ、いられる場所。しかも、ほとんどの命はまだ途上で失われるべきもの。


そういった命を受け入れることでしか命が続かないとすれば、私たちはお金持ちになる必要も、経済発展や研究開発に力をいれる必要もない。ただ「生」を精いっぱい楽しむだけでいい。そんな動物的なあり方をしたときに限って、生を楽しむことのできる世界が蘇る。