るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

医療よりも、学問よりも、規模の小ささが重要

輪切りにした木の幹や、ポリタンクなど、何の変哲もないものをおもちゃにして、飽くことなく子どもの姿。勢いをつけてプールに飛び込んでみたり、仰向けに水に浮びながら鼻の上にのせた板きれのバランスをとってみたりと、遊びながら体を鍛え、身体磨くことを自然にやっている。


こうした姿を見せてくれるのは、円山動物園のホッキョクグマ、リラである。先に生まれた姉や兄が、生後1年ほどで母から引き離されて去っていったのに対して、リラはもう繁殖させるには母が高齢になったせいもあるだろうが、4年近く母グマと同居を続けて居る。


人間の子どもたちが、遊び場を失くし、遊ぶ時間をなくし、さまざまな行動を禁止される一方で、動物園という場所ではあるものの、文明さえなければ、人間の子どもたちも、そして大人も、こんな風に日々を楽しみながら生きるのだろうという、生命本来の姿を見せてくれている。





命は、残酷で、身勝手で、悲しく、あいまいでもある。そんな命が作りあげた文明社会の正体は、経済活動のために一生を費やすようにあらゆる制度が整備された牢獄である。民主主義など存在せず、企業活動を盛んにして、資本家の懐を肥やすように、理論が組み立てられ、法律が定められて、文明社会ができあがる。




ガソリンの価格を決めるのも、医療制度を決めるのも、教科書の内容を決めるのも、資本家たちである。生物の本来の姿とは程遠い人間像を提起し、人々を倫理観で縛りつけながら、巨大化されて個々人の意思を反映できなくなった社会の方向性を定めるのは、マスコミを支配し、教育を支配し、経済も、軍事力も支配している資本家たちである。




医療の向上や、経済の発展、権利の尊重などのお題目を、マスコミと教育によって与えられることで、私たちはホッキョクグマたちが見せてくれる、本来の生き方ができなくなっている事実に気づかなくさせられている。「電気もガスも自動車もない生活なんて、恐ろしい」と思い込まされているが、事実は、電気やガスや自動車がある生活のほうこそが恐ろしく、私たちの一生を支配する「大きな社会」を作りあげる基礎になっているのである。




電気もガスも自動車もなくても生きていけるたくましい肉体は宝だが、文明の恩恵なしに生存できないぜいじゃくな肉体は、負債である。大きな社会は、生命にとって危険な存在であり、小さな社会こそが安全な場所なのだ。




円山動物園より:プールで遊ぶホッキョクグマの親子 | 札幌市円山動物園ファン(Sapporo Maruyama Zoo Fan)

人も生きもの(波乗りジョニーは会議室から海へ)

多くの現代人が文明に押しつぶされようとしている。


ネクタイをはめて満員電車で会社に通い、夜遅くに帰宅する。
休日の多い職を得ながら仕事に意味を見いだせないでいる。
人が決めただけの日付と時刻に追われて生きる。
食費、光熱費、住宅ローン・家賃、学費、医療費、車の支払い。


そうして人を押しつぶす文明を学校では開化と教え、
テレビでは我が国にこうした文明を押し付けた西洋を礼讃する。


文明社会が海を埋め立て、川を汚し、地下水を汚染する前の世界では、
人は生きることに直結する活動に大部分の時間を費やしていた。
そうした世界を、学校教育やテレビ・新聞は、人の権利が尊重されない、
不衛生で、ろくな医療もない世界であると描く。
だが、それは、物事を一面しか伝えてはいない。
「人は生きもの」であるとい現実を踏まえてなどいない間違った情報である。


カラハリ砂漠のブッシュマンや、カナダ北部のヘアーインディアン、
コリーン・M・ターンブルの描くピグミーの暮らしを知ることで見えてくるのは、
生きることに直結した生活の確かさである。
生は理想ではなく現実であって、ずるく利己的に社会はできているが、
社会の規模が小さいことと、他者によって生き方を縛られないことによって、
人は生きることに直結した活動に専念できている。
子育てを楽しみ、生業である狩猟を何よりも楽しみにする。
他の生きものたちと同じであることに何の疑いも持ちはしない。


文明社会が人を押しつぶすのは理由があってのことである。
人はエゴイストであることを免れず、非道であることを免れない。
生命としてのヒトが、巨大な社会を作り上げた文明世界では
大衆は生きものとして生きるのではなく、
教え込まれた枠組みに従って活動する機械になることを要求されている。
その枠組みを作るのは、エゴイストである文明の支配者たちである
(金融の仕組みを作り、法を整備し、学問もメディアもその配下にある)。


増えすぎた人口を調整するために多くの労働者には、
ぎりぎり生活できるだけの収入しか得られない社会が作りあげられる。
文明の真実を見抜こうとする者は、情報の流通から疎外されていく。
そうして、嘘だらけの情報ばかりが大量に流通して人は生きものであることを忘れる。


経済格差が拡大し、心を病む者が増え、子どもたちが遊ぶことも難しい状況を生むのは、「人は生きもの」であるという現実から目をそらしているからだ。


素晴らしい指導者、素晴らしい文明、素晴らしい技術。人は生きものであることを前提とすれば、こんな言葉はどれも嘘であることがすぐにわかる。権力は乱用され、制度は私腹を肥やすために利用され、技術は悪用される。「人は生きもの」であるという事実を徹底的に踏まえれば、そんなことはすぐにわかる。わからなくさせているのは、「人は他の生きものたちとは違うはずだ」という、文明社会の支配者たちによって植え付けた価値観のせいなのだ。


私たちを押しつぶそうとする文明の正体は、生きものであるヒトが作り上げた、「素晴らしい」社会である。素晴らしくあることをやめ、本来的であることを求めていくことが道を開く。


動物たち

円山動物園のホッキョクグマ、ララとリラ、そしてデナリ。
子グマたちに泳ぎを教える母グマの姿や、大人になっても遊び好きな雄グマの姿、娘をプール遊びに誘う母グマの姿などを教わりました。


多摩動物公園オランウータン ジプシー婆ちゃん。
60歳を超えても元気に塔に登ったりしていましたが、2017年に亡くなってしまいました。縛られたロープをほどくことに熱中したり、子どもの相手になったりする様子は、人間そっくりです。言葉はないのに、言葉を話しているように見えてきます。


東山動植物園のゴリラ、シャバーニ一家。
人工保育で育てられた娘アニーをかわいがるシャバーニの様子は、人間の父親と娘そっくりです。メスたちにちょっかいをかけてはふざけようとするシャバーニの様子は、人ももともとスーツを着てしかめっつらをしているよりも、こうしてふざけていたのだという少し前まで当たり前にあった世界を思い出させてくれます。


我が家の4匹の猫たち。
母猫と2匹の息子猫、そして最後に加わった若い1匹メス猫という構成です。母猫にとってはとっくに大人になっていても息子たちはやはり息子であるようで、ことあるごとに舐めてやります。息子たちが母猫を舐め返すことはほとんどありません。息子たちはメス猫を舐めてやります。そして、息子の一頭が多くの時間をメス猫と共に過ごしています。猫にもこうした雄雌の情愛のようなものが存在することを、多頭飼いによって知ることになりました。




動物たち、特に比較的知能の高いだろう動物たちの姿を見ていると、文明社会が奪ったものが見えてきます。


子どもも大人も遊びが好きで、身の回りのちょっとしたものをおもちゃにかえて遊んでいたはず。


ふざけあうことや、言葉を交わさない中でのおだやかに気持ちを通じ合わせる時間、親子で過ごす時。


そうした生物としての本来の姿を犠牲にする文明の進歩とは何でしょうか。


根本的な間違いがそこにはあるはずです。