るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

孫悟空とお釈迦様の指と今の私たち

子どもの頃に読んで記憶に残っている話が誰にでもあるだろう。


私が印象深く覚えているのは、バベルの塔、パンドラの箱、アダムとイブ、杞憂、塞翁が馬、鶏頭牛後などだが、その一つに孫悟空とお釈迦様の手のひらの話も印象深く記憶している。

こんな話だ(孫悟空 ソンゴクウ 中国の神話・民話 :幻想世界神話辞典より)。

(大暴れを始めた孫悟空は)さらに天界では、西王母の桃を勝手にたらふく食べ、老子の薬も勝手にいただき、しまいには 神にしろと言った。釈迦に「右の手のひらから、ひと飛びで 飛び出せたら神にしよう」と言われ、觔斗雲の術で大空の彼方に飛び去り、 空の果ての5本の柱に落書きして小便をひっかけてきたが、それは釈迦の手の指だった。


お釈迦様の手の中から簡単に飛び出して、随分遠くまで行きついたつもりだったのが、結局お釈迦様の手の中から出てなどいなかったという話だ。


自然療法やホメオパシーなどについて調べ、現代社会の本当の姿について調べていくうちに私がたどりついたのがこの話だった。人は結局、生物であるという宿命の中で生きて行くしかないのだということが見えてきたのだ。それは、高度な医療や高度な経済活動を否定し、大規模な社会を否定するあり方だ。


私たちが頭脳に身を任せれば、私たちは生命である必要性をなくしてしまう。私たちが善なるものだけを大切にしようとすれば、生命が持つ悪の部分を抑え込もうとして、いずれ破たんすることになる。私たちが生命を大切にしすぎれば、生命の法則によって私たちの種は劣化していく。私たちは孫悟空と同じように、生命である限り、生命がおかれた宿命である、多産多死や競争、共存共栄、物理法則による制約など多くの制約を受け入れていくしかなく、人類の都合でこの宿命を変えることはできないのだ。つまり、お釈迦様の手の平は、私たちが生命であるという事実そのものだったのだ。


文明の支配者たちが私たちに見せている夢は、ネズミ講の胴元が描いて見せる夢と大差のない、決して実現できない夢だ。生命である私たちは利己主義を捨てることもできなければ、弱い仲間を救い続けることもできない存在だったのだ。



私たちは生命としてしか存在できない。だから、動物として生きるしかない。