るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

「味付け」「呼吸」「小腸」「母乳」など食を多面的に考える

・味付けは、さまざまな食材をおいしくいただくための素晴らしい工夫だと思っていませんか?
・食べ物を食べなくても体重が増えることがあるのはなぜでしょうか。呼吸の大きさを見逃していませんか。
・古来から丹田とも呼ばれ、血の生成に大きく関わっていると考えられていた小腸。物言わぬ臓器だけに小腸の重要性を忘れてはいませんか。
・子供の成長に連れて成分が変化していく母乳という贈り物を軽視していませんか。


そんなさまざまな観点から食に付いて考えさせてくれる面白い本です。



名著紹介『自然食の効力 あと40年健康を保つ』

なぜ人類は今回に限って文明を生んだのか/文明はヒトを幸せにしたのか

現生人類であるホモサピエンス以前の人類は文明を生まなかった。
ホモサピエンスも誕生以降の9割を超える期間は、
旧態依然の暮らしを続けてきた。
なぜ、1万5千年前に終わった最終氷期の後にだけ
文明が生れたのだろう
今回はその理由を探ってみたい。





ホモサピエンスの誕生は、20万年程前、アフリカの熱帯地方でのことであった。


ホモサピエンスは裸になり、
言葉を話す能力を得たと思われる。(『はだかの起原』)
しかし、衣服を知らず、農耕も知らず、遊動しながら暮らしていた。
ただ、それ以前の人類は言葉を持たず、
毛皮を着ていたことと比べれば大きく変化したわけだ。 


その後2度の氷期が訪れる。
リス氷期が18万年前から13万年前。
この時期、まだ毛皮をまとっていたネアンデルタール人たちは
ヨーロッパで生きていた。
他方で、ホモサピエンスは気候の変動に合わせて
居住地を縮小させたことだろう。
しかし、その頃のアフリカは裸の人類が生き残ることのできる
気候であったと思われる。



ヴェルム氷期が7万年前から1.5万年前。
この氷期のきっかけになったのは
インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山の大噴火であり
気候の寒冷化が引き起こされた。


この寒冷化によってホモサピエンスは絶滅しかけたのだ。


ホモサピエンスは全人口が2000人程までに減ったという。(『パンドラの種』)
生きのびた理由には、衣服の発明が考えられる。
コロモジラミがアタマジラミと分岐した時期と重なるからだ。


こうして衣服を手に入れたホモサピエンスは、
このヴェルム氷期の間に
アフリカを出て世界各地に拡がっていった。
寒い気候に合わせて肉食中心の食生活に変えることで、
服を着た人類は世界中を住みかとすることが可能になった。


こうして、広まった人類が直面したのが、
氷期の終わりと気候変動、
そして獲物にしていた動物の減少だ。


日本で言えば旧石器時代から縄文時代への移行期に当たる。
このとき、世界各地で水産資源の利用が始まった。
それまでいた獣たちが気候変動でいなくなり、
人は水産資源に頼らざるを得なくなったのだ。


そして、それが人類史上初めての定住と
農耕の開始につながっていった。(『人類史のなかの定住革命』)
世界各地の農耕が開始された場所は、
水産資源を利用するために人びとが
定住を始めた場所に他ならないのだ。



これ以外の時期に水産資源の利用は考えられなかっただろうか


北京原人、ジャワ原人なども
気候変動によって、見慣れた動物がいなくなってしまうという、
同じような状況を迎えたことがあっただろう。
しかし、ホモサピエンス以外は
水産資源の利用に乗り出さず、絶滅してしまった。
なぜだろう。


水産資源を利用する霊長類にカニクイザルがある。
ヒトの髪の毛を奪って歯垢とりに利用する習性を身に付け、
しかも子どもにこれを教えるというからカニクイザルの知能は
かなり高い。
しかし、カニクイザルの主な食べ物は他の霊長類同様果実や葉のようだ。
水産資源を主な食べ物とするには、
舟やヤナ、網などが必要であり、そのためには、
言葉が必要なのだと考えられるだろう。



18万年前から13万年前リス氷期の到来時には、
ヴェルム氷期と異なり服が発明されることもなければ、
リス氷期の終わりに水産資源の利用が開始されることもなかった。
なぜだろう。


先にも述べたが、アフリカでは、裸のホモサピエンスが
それまでと同じ暮らしを続けることのできる気候が
保たれていたからではないだろうか。


とにかく、人類が水産資源を大いに利用しはじめたのは
最終氷期が終わってからが初めてだった。



余儀なくされた定住化
人類が体毛を失って初めて迎えた厳しい寒さが
衣服を発明させて人類を世界に広めた。
この寒冷期がすぎて迎えた
温暖化が水産資源の利用を開始させた。
水産資源を本格利用するには定住が必要だった。
こうして人は定住せざるを得なくなった。 
定住してしまって入手しにくくなった植物を得るために
農耕を開始してなくてはいけなくなった。
農耕を開始してしまったから
絶えることのない
重労働が待ちうけていた。


農地が人を縛りつけ、
農地が無償の食料を奪い、
野生の生活を奪った。 



遊動生活を続けてきた人びとの暮らしぶりは
実にのびやかである。
あらゆる負の要素を遊動によって解消する。
確かに生活域は限られており、
構成員は固定されているともいえるが、
きままに構成を変更でき、
移動できることや
日々体を動かして暮らしを続けること、
保証されない生を感じていることが
人びとの心を癒し、生の充実を与えている。


遊動生活の実態を知ると、
定住は「選んだ」というよりは「余儀なくそうなった」のだという
事実が見えてくるのだ。 



まとめよう
人類が今回に限って文明を生んだのは、
人が裸になって言語を手に入れた後で迎えた
最終氷期が終わって気候が変動し、
獲物を取れなくなるなかで水産資源に活路を見出したことが
契機となっていたからだった。





定住は実は不自然な状態だ。
環境は悪化し、食生活は貧弱になり、病気や争いが激化する。
貧富の差ができ、土地の私有と土地に縛られた庶民が誕生する。
しかも、定住は望んだ結果ではなく、
生きのびる工夫が生んだ
副産物だったのだ。



生物学的に見れば、大型霊長類が定住するということは異常だ。


反論はあるだろう。
生物は本来の生き方とは別の生き方に変わることができるのだと。
パンダは肉食から笹を食べる動物に変った。
クジラは陸上から海に進出した。
人も生き方を変えていって何の問題もないはずだ。
しかも、この人類の発展を見れば、
これが正しかったはずだと思うかもしれない。




もしそう思うなら、
狩猟採集者たちの世界こそが正しいのではないかという視点で
現代社会と狩猟採集社会を比べてみて欲しい。


狩猟採集社会に存在する問題の瑣末さと
現代社会の抱える問題の深刻さが際立ち
どちらの社会でヒトはより幸せに生きることができるのか
極めて明確に見えてくるはずだ。



たとえば、
私たちは、人権侵害の罪で狩猟採取者たちを糾弾するよりも、
本来実現できるはずのない、誰の人権も侵害されない世界を吹聴して
先住民たちを文明という牢獄に組み込んでいく側を糾弾すべきなのだ。


限られた資源を分け合って生きて行くということは、
生命の法則に従って、はかない生を生きることを意味し、
生がはかないからこそ、日々を生きることに
意味があることを意味する。


そこには、工夫をすれば
この生命の法則をのがれることができるなどという
ごまかしは存在していない。



文明は、ヒトを惑わせるが、
生命の本質を変えることは決してできない。
生命の本質は、動物たちや狩猟採集者たちが見せてくれる。


それは、生れた子の半数以上が成人前に死んでいくような
はかない生をきちんと受け入れよということである。

野生の食べ物だけが体によいのだが

いつもありがとうございます。


さて、私は、ヒトの本来のありかたを探る作業を続けているわけですが、多くの本を読むことで見えてきたことがあります。それは、肉が良いとか果物が良いとか以前の問題として、現在普通に手に入る食べ物はほとんど体に悪いという事実です。


まず意外だったのは、穀物は基本的に体に悪いということでした。人は加熱された炭水化物をほとんど必要としていないようで、『日本の長寿村・短命村』には米を大食いする村は短命であることが指摘されています。また、『パンドラの種』など多くの本に、農耕を開始して人は不健康になったことが記され、その原因として炭水化物を主食として偏食するようになったことが指摘されています。


次にわかってきたことは、『偏食のすすめ』や『自然食の効力』にあるように、人間の本来の食べ物は、チンパンジー、ボノボ、ゴリラなどと同じく果物と野菜なのですが、どうやらフルータリアンやベジタリアンが決して健康長寿ではないということです。スティーブ・ジョブスなど、ベジタリアンでしたが短命でした。我が家でも朝は果物だけを食べていますが、あまり効果を感じません。それどころか、体に悪いのかもしれないという感覚があります。


果物を食べ続ける暮らしを続けて、どうやらその原因がわかってきました。私たちが日常的に入手できる果実はほとんどが栽培されたものであるということです。たとえば、ビワは、いつ頃日本に入ってきたのかわかりませんが温暖な地域には自生しているビワもあります。ただその実は小さく種が大きくて商品にはなりません。このようなビワであれば健康によいでしょうが、人の手の加えられたビワはもう健康を損なう食べ物になってしまうようです。


肉食は悪いという人もありますが、肉食偏重のエスキモーや乳と血を多く摂るマサイ族は、特に不健康ではありません。『医療人類学』を読むと、どうやら野生の動物は脂身が少ないことが関係しているようです。マサイ族も牛にエサを与えることはありません。これも果物同様、人が手を加えれば加えるほど、健康に悪い食べ物になっているといえそうです。


もう一つ見えてきたことは丸ごと食べる重要性です。肉や魚の切り身、生成された糖、塩など、ミネラルを含まない食品は、食べても食べても満足感を得ることができないだけでなく、人の健康を損ないもします。柿やリンゴなどの果物も皮ごと食べることが重要ですし、魚であれば小魚を丸ごとたべ、肉であればできるだけ捨てる部分を少なくすることが重要です。そうすることで、ミネラルを多く摂取できます。


さらに、肉体を衰えさせないためには、固い食べ物、消化しにくい食べ物が必要です。柔らかく消化しやすい食べ物ばかり食べていると、人の体はあっという間に衰えてしまいます。『顔の本』にあるように、ネアンデルタール人まではなかったおとがいができたのは、火を使って加工したことが原因として考えられますし、縄文時代まではしっかり咬み合わせることができた歯も、今ではほとんどの人で上下がずれて咬み合うようになってしまいました。


絶食も重要です。絶食することは、毒抜きにつながります。農耕を開始して健康状態が悪化した理由の一つは、絶食時間が少なくなったことにあるかもしれません。そもそも、加熱した穀物を主体に一日三食食べるということは消化器官にとって負担が大きすぎるのかもしれません。


 基本的に生食が良いということも言えます。インドのアンダマン諸島には火を使わない先住民が暮らし、エスキモーもお湯を飲む習慣がありませんでした。確かに、ローフーダーにもベジタリアン同様問題があると指摘されています。これも先に述べたような食品自体の問題が考えられ、その他に腸内細菌が変ってしまったことや、歯の咬み合わせが悪くなったこと、幼児期に十分雑菌にさらされた経験がないことなどが、生食を難しくしているのではないかと思われます。


栽培や飼育によって柔らかく味のよい素材を作り、加熱する、すりつぶす、味付けをする、切り刻むといった加工を加えて、人はおいしく食べる工夫を重ねてきました。このような暮らしを長く続けた結果、人は人工環境がなければ生きられない存在に近づいています。 そのことが、人を不健康な存在にしつつあります。


人は自然界を汚染してしまってもいます。海も山も汚染されました。動物たちの行き来を阻むフェンスや道路が作られて、多くの種が絶滅しました。自然界から食べ物を得ることがどんどん難しくなっています。


実際には、自然界から食用に向いた動植物を選び出すことはなかなか難しく、知識のない者が山や川に行ったところで食糧など得ることはできません。また動物も植物も自衛をしていますから、簡単に美味しく食べることは難しいのは事実です。 それでも、生物として健康を保つことができるのは、自然界から手に入る食べ物だけを食べる暮らしなのだろうと、私は考えています。