るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

何のために生きているのだろう

長寿や乳幼児死亡率の低下はよいことなのだろうか。


長寿社会は、多くの高齢者を少数の労働人口で支える状態が一時的ではなくずっと続くことを意味する。


乳幼児死亡率の低下は、たとえば4人中2人が生き残って遺伝子を残していた状況を2人中2人が生き残る状況に変えていく。そのような状況が長く続いたとき、人は健康な子を生み続けることができるだろうか。高齢社会と同様に、ひ弱な子どもの増加は、労働者の負担の増加も意味している。


人口の増加は食料の不足を意味する。人骨は、農耕開始前の人々の健康と食の多様性、それに対する農耕開始後の人々の不健康と食の均一性を告げている。近代化は食をさらに均一化し、ほとんどの食物がわずかな種類の原料(小麦、卵、牛乳、油、砂糖、トリブタウシ)を組み合わせたものにすぎなくなっている。さらに進めば、肉を生産することさえ不効率とされて人造肉のようなものばかりが流通する世界になるだろう。


人生は常に不安との戦いになる。かつてのように、自力で食べ物を探す世界ではなくなったのであるから、職を得てそれなりの収入を確保していかなくては生きることが難しい。遊んでいる暇はない。勉学に励み、内申書の点数を上げ、仕事を失うようなバカをせず、老後に備えてガマンガマンの生活を続けていくしかない。


人口増加は格差によって抑えることが可能かもしれない。しかし、そんな社会にやすらぎがあるだろうか。格差を受け入れないとすれば、何によって人口増加を抑えるのか。巨大な権力が去勢や避妊を強制するのだろうか。


このような社会に生きる自分を想像してみよう。
生れてから死ぬまで自分らしく生きる時間はどれほど存在するだろうか。
いつも、義務を果たし、不安を解消するために生きるだけではないだろうか。
嫌だと言えば、転落人生が待っているだけだ。
我慢の人生を送って、このような生き方にどれほどうまく適応できたかを
誇るくらいのことしかできない。


動物たちや未開社会の生き方が教えてくれるのは、命の真実だ。
サバンナの動物親子に学ぶ』に描かれた草食動物たちの軽やかさだ。


人は何のために生きているのだろう。


ヒトの本来の生き方を問えば
見えてくるのは、
ただ生命の掟に従って生きて行く世界だ。


無理に命を救おうとせず、
死をいつまでも嘆き悲しまず、
自分の番が来ればいさぎよく受け入れる。


そうすることで、日々の生が軽やかになり
自分らしく生きられ、
愛情深く生きられる。


人生相談は告げている。
我慢を強いられる人生から愛情は育たない。
我慢を強いられたとき、人は自分を知ることもできず、
したがって人を愛することもできず、
生命力を維持することもできない。


こうしてみると、
親の長寿や子の安全を願う愛情が
愛を育むことのできない社会を実現してしまうのだ。



何のために生きているのだろう。
日々、生を感じるためとしかいいようがない。
それを実現できるのは、
医療でも教育でも経済発展でも法整備でもないのだ。