るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

野生の世界

【残酷な狩りの動画を下部に埋め込んであります。】


愛嬌のある犬のような動物(リカオン)が、
かわいらしい声をあげながら
生きた獲物の肉を食いちぎる。


群れを作る動物たちは、
息の根を止めるのではなく、
草食獣の下腹部あたりに噛みつき、
生きた獲物の肛門周辺を噛み破って食べ進めるようだ。


草食獣たちはこのような攻撃を受けると、
振り払うことも、突き飛ばすことも、
前足でけることもできず、
犠牲になっていく。


あるいは、生まれたばかりのシマウマやインパラが
あっという間に肉食獣の餌食となる。


ガケに安住の地を求めたヤギたちも
イヌワシにとっては格好の獲物になってしまう。


ヒヒも無抵抗なインパラの子を
殺しもせずに食べ、
親を軽くあしらうのである。


こうして野生の世界を見ていくと、
私たちも間違いなく同じ生と死の世界に生きていることを
教えられる。


人工的な世界に暮らすうちに、
人は、何かのために生まれてくるのだとか、
苦難に耐えていればいつか良い日が来るのだとか
妄想するようになってしまったが、
事実はまったく違うことがわかってくる。


生ははかないものであり、
老いを迎えることは僥倖に過ぎず、
いつ終止符が打たれても
何の不思議もないものなのである。


こう考えると
社会は、多くの人々が老年期に達する前に
生を終えることを前提として作られている
べきであることがわかってくる。


たとえば、狩猟採集民アンダマン島民の社会を見ると、
確かにそのような社会が作られているのである。


共同体社会と人類婚姻史「?狩猟採集民アンダマン諸島人の子供の家族間移籍?」

●村の子供

村の子供たちはほとんど区別されない。みんな、本当の母親だけでなく村のどの母親にもいじくられ、かわいがられ、乳をもらう。乳離れするのは3、4歳になってからであり、その後は「村の子供」と見なされるが、ずいぶんたらいまわしにされる。

その後さらに顕著な分散が起こる。

6、7歳以上の子供が両親と暮らしていることはまずない

。既婚者がある家を訪問すると、その家の主人に子供を一人養子にくれというのが、礼儀であり友愛のしるしであると考えられているからである。この申し入れは通常同意され、以後、子供は養父と住むことになる。実の両親も他の知り合いの子供を養子にするが、始終実子を訪ね、2、3日その子を連れ出すこともある。

何人養子を迎えようと自由であるが、やさしく、思いやりをもって接しなければならず、すべての面で実の息子や娘のように扱わなくてはいけないし、養子のほうも孝養をつくさねばならない。そのうちさらに別の友人が養子にくれと頼むことも希ではなく、それもすぐ許される。

思春期を過ぎると、男子は両親や養父母の小屋を出て独身者小屋で生活を始め、結婚までそこにいる。

●結婚

アンダマン諸島人の結婚のルールは、社会組織の他の側面と同様、散漫かつ曖昧にできている。近親婚は禁じられているが、その禁止は極めて明確に規定されているわけではない。男性が姉妹や異父母姉妹、伯(叔)母や姪と結婚してはならないことは明らかだが、イトコとの結婚の可否に関してははっきり定まっていない。

里子の場合、幼時に孤児としてもらわれていれば真の親族とみなされ、養子先の近親者と結婚することはできないが、前述の習慣に従って、もっと大きくなってから「借りてきた」子供であれば、もらわれた先の家の子供と結婚しても構わない。実際、この種の養子はふつう、里親のところの兄弟(姉妹)との婚約につながり、双方の両親はそれを期待している。

結婚の大半は、異なった地域集団のメンバー間で行われ、地域的外婚の傾向がある。

結婚の習慣の特色の一つは、レヴィレートと呼ばれる習俗で、夫が死亡すると寡婦は、亡夫の弟か弟に相当するイトコと結婚する。これと表裏をなす習慣、ソロレートもやはり行われており、男やもめは、亡妻の妹と結婚することになっている。この習慣によって、寡婦や男やもめを社会的に保証し、二家族間の結合を維持している

アンダマン諸島人の結婚は、非常に一夫一婦主義的であり、夫婦のどちらの不義もきびしく非難され、処罰される。しかし、結婚は結婚式によって完全に成就するとはみなされず、子供の誕生によって決まる。

結婚前には、若者たちは自由に性的な実験に参加する。


一つ一つの事実を積み上げていくと、私たちは人工環境に囲まれていることで大きな誤解をしていることがわかってくる。人類は生命の法則を脱したと思い込んでいるが、人が生物である限り、生命の法則から脱することはできないのである。


生命の法則から脱することができないということは、雑菌に囲まれて生きるしかなく、先天的な障害と付き合っていくしかなく、危険な獣と共存していくしかなく、やっかいな寄生虫や害虫と共存していくしかなく、肉体を駆使して生きていくしかないことを意味している。


多くの知識人が文明社会を疑うことをせず、まだ人と動物の違いを信じ、人工社会の中で培われた価値観を信奉する姿を知るたびに、私は大きく否定したくなるのである。