るびりんブログ

鼻に風の当たる場所でなければ、頭がぼんやりしてしまって考えることができない。

使用人口400人の言語

ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』の概要説明につぎのようにある。

ピダハンはアマゾンの奥地に暮らす少数民族。

四〇〇人を割るという彼らの文化が、チョムスキー以来の言語学のパラダイムである「言語本能」論を揺るがす論争を巻き起こしたという。

400人を割るという表現を読んで、私は、この言語が絶滅の危機にひんした言語であると思いこんでしまった。しかし、ピダハン語の使用者はピダハン語だけを話すモノリンガルであるため絶滅の危機にあるとはいえないようである。


先住民族の世界を知っていくと、こういうことがよくある。


たとえば、白人たちがオーストラリアにやってきたころ、オーストラリアに住んでいたアボリジニの数は30万人~100万人であるという。言語は600を数え、方言的な言語を整理しても200言語に上る。


100万人が200の言語を話していたとすると、一つの言語の話者は平均5000人だ。
30万人しかいなかったとすれば、平均1500人ということになる。


本来的な暮らしを続けていたなら、言語の使用人口は数百人から数万人しかいなかったということになるのだろう。


ニューギニアはさらに言語が多く、「異常」と表現されている。
「世界5000以上の言語数に占めるパプアニューギニアの比率は異常」海外の反応|暇は無味無臭の劇薬

パプアニューギニアは、世界で最も言語の豊富な国といわれている。また、世界で最も言語の消滅の危険が高いといわれている国でもある。


険しい山岳地帯、湿地帯に阻まれて部族間の交渉が少なかったこともあり、小さなコミュニティが独自の文化・言語を発達させ、人口が600万人に対して、言語の数は800以上にもなる。そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下である。


北米大陸や南米のアマゾンの状況も似たようなものだった。1492年の時点でメキシコ以北に100万人が住み、296の言語を話していたという(平均3400人ほどになる)。


西洋発の文明は多くの言語を滅ぼそうとしている。これに対し、未開社会は、争いを繰り返しながらも人口数千人規模で構成された異なる言語を話す集団の共存をさまざまな場所で実現してきた。


バベルの塔の物語によって私たちは人間は本来一つの言語を話すべきなのだと思い込まされているのではないだろうか。本当は、数百人程度の使用人口を抱える言語に分かれていることが許容される世界のほうが本来的なのではないだろうか。