生きるということ
言葉の魔力によって定住化が可能となった人類。
定住化の影響がどのようなものであったのかを象徴する動画を紹介したい。
ここに登場する人たちは、狩猟採集者たちである。多くは遊動生活をしている。すなわち一定のテリトリーの中を季節に応じて移動しながら暮らしている。
よくみると、子どもが多く、老人がほとんどいない集団ばかりであることに気づく。
だから、画面から活気が伝わってくるのである。
『アボリジナル』にこの辺りの事情が記述されており、つまり、彼らは仲間を手厚く介護することができないが、それゆえに幸福であるというのである。同じような状況は『ピダハン』、『グアヤキ年代記』、『北極圏で暮らした日々』にも描かれている。
しかし、老人が少ないという点は、これは一面に過ぎない。
遊動する狩猟採集者たちは、おそらく持ち物が制限されていること、資源が分散していること、協力し合うことで生き残りの確率が上がることなどの条件から平等主義的な社会を作りあげている。
遊動する狩猟採集者たちは、動物たちの生き方に近い生き方を楽しんでいる人々でもある。食べものを得ること、子を育てること、生を楽しむこと。私たちの暮らしと違い、狩猟採集生活では多くの時間がそのような活動に費やされる。
しかも、狩猟採集生活は、世界が私たちに属すのではなく、私たちが世界に属しているという事実に即した生き方でもある。つまり、狩猟採集者たちは生態系の一部として生きているのであり、生態系を壊すことが死を意味している。また、生物としての健全性も維持される生き方でもある。弱い仲間を助けることができないことが、私たちの暮らしを破滅させることから救ってくれているのである。
私たちは、食べものを食べ、子を育て、生を楽しみ、運命に従って死んでいくことしかできない生物として生まれてきた。言葉が作りだした定住生活は、この事実を忘れさせた。言葉は、人々に労働を強いて、余剰を産ませ搾取する人間を産んだ。言葉は、弱い仲間を助けるという、生物としての運命に叛く活動を可能にした。
弱者の切り捨てをしてはいけないというあなたに問いたい。老いてもなお手厚く介護を受けることのできる金持ちと、健康で若くありながら、労働力としてこき使われるだけの一般人とを産む現代社会と、すべての個人が等しく運命を受け入れるしかない狩猟採集社会とどちらが残酷かということを。私たちはすべて弱者なのだ。
ついでにいうと、私たちは、動物として生まれてきた生命であり、神に近い存在でもなければ、理性的な存在もでない。そのことを証明しているのが現代社会のありようなのだ。
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